死

死ぬのが怖い

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チビ太が就寝前に突然泣き出した。

「ボクもいつか死んじゃうの?」

もうすぐ五歳に対して答えるには、微妙な質問である・・・

 

「そうだよ、人はだれでもいつかは死ぬんだよ」と答えてみたものの、チビ太はどういうわけか明日の朝自分がもう二度と目を覚まさないのではないかという不安にかられ、涙が溢れるばかり・・

可哀想なので、「誰でも死ぬ説」はとりあえず横に置いておいて、「誰でも必ずどこかで目を覚ます説」に急遽転校する。

仏教の輪廻転生思想は心ではなんとなくわかるのだが、私的には一回人生終わったらその後のことまで色々思い悩んだり心配するのは御免なので一回きりの人生、あとはなんもなし、が一番いいと思っている。

だが夜寝入ったら朝になっても目が覚めない、という眠りの森の姫的シチュエーションに陥るのが恐れる子供にはどう説明したらいいんだか。。

死は生まれてくるのと同様大きな自然の流れに常にあるもので、恐ろしいものでもなんでもない、と。永六輔さん著の『大往生』を読んだ当時は、死ぬってのも結構楽しそう、って気がしたもんだった。

『大往生』(1994年)
永六輔

でも死ぬのもさほど簡単ではないようである。

とにかく、チビ太にとっては、「目が覚めないこと」とは、とてつもなく寂しい場所に一人で閉じ込められるということと同義なのだ。

死後は無であってほしいと私は勝手に思っていたが、もしかしたらそんな静謐な『無』などどこにもなく、意識を保ったまま寂しい棺桶みたいな暗くて狭い場所にひとり閉じ込められてる時間が永劫に続くのが死後だとしたら・・・

やはり辛くて寂しくて・・・
何よりとても怖い。。
どんどん閉所恐怖症の傾向が強まってる私には・・想像するだけで無理・・。

後日ダディ造から聞いたのだが、チビ太のこの死ぬのが怖い話は、前日にばーちゃんが友達とあんまり老いさらえて長生きするのは御免だ、という話をしていたのを横で聞いていたせい、、とか。
私もそのとき横にいたはずなのだが、チビ太はばーちゃんの友達の孫と遊んでたので、まさかこの会話を耳にしていたとは気づかなかった・・。

聞こえてないと思っても、子供はなんでも聞いてると思ってた方が間違いない、とは常々思っていたのだが、場所が人の家とか通常とは違う状況が多少でも発生するとたちまち、我が家の家庭内の法則はすごい確率で忘れ去られる。。

まとにかく、私にはばーちゃん達がさほど怖い内容の話をしていたようには思えなかったんdが。
だって内容といえば、うちでも親がよく言っているような、「老いて体の自由もきかなくなって長生きするのはやだねー」とか。
お友達のばーちゃんの方はうちの義理ばーちゃんより七歳若くて、その美貌もかなり現役、フランスのブルジョワ~の塊みたいな育ちっぽいが、それ故に余計物怖じせずズケズケいう物言いもまだまだ現役で、私は大好き!こういうおばあちゃん、いたらかっこよ過ぎる!というのを体現してる感じのばーちゃんで、大概のことは許せるタイプの人だ。

でそっちのばーちゃん云わく。
「年取って楽しく生きてくには、グチグチいうややこしい奴とは縁切るべきだ!」。

そこでさすが一緒の家に住んでるだけに、ダディ造と私は微妙に同じことを感じる・・
「この『ややこしい奴』っていうのは、もしかして、あなたの眼の前にいるうちらのばーちゃんのことではありませんか??」。。。

ま相手に確認したわけではないし、各人の人間関係は特殊なのでそれ以上は知らんが、我が息子の「死ぬのが怖いの話」に戻ると、私の方の親は今のところ死を迎えることに恐れとかなく、できればボケずにあっさり逝きたい、が一番の願いだそうだ。
しかし、生粋の西洋人の義理ばーは、ひとりで死ぬことがとてつもなく怖くてたまらないようだ。

うちの両親はふたり共一応健在なので、少なくとも先に逝く方は基本、ひとりで死ぬということにはならない。
だから一人暮らしのばーちゃんと同条件ではないし、最後に残った方がどう感じるのかは今のところ分からない。
ただ独り暮らしが長く、若い頃からがむしゃらに自由を求めて生きてきた七十九年の人生も終盤に近づいてきて、アメリカのばーちゃんは、やっぱりひとりで死ぬのはやだ、的なことをここ数年痛感し始めたようである。

死

死ぬのが怖いのはチビ太だけではない。ばーちゃんだって本当は怖いのだ。

ただそういうのは今どきダサし見栄っ張りなのでそうは言わないだけだ。
と私は睨んでいるのだが・・

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