東京フィアンセ

アメリー・ノートン、西洋から見た日本社会

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幼少時に日本に住んでいた作家アメリー・ノートンの原作を下敷きにした「西洋からみた日本社会」をテーマにした映画二本をご紹介。

一本目は『畏れ慄いて』(おそれおののいて・2003年製作 / 原題『Stupeur et tremblements』』)

これをグーグル自動翻訳にかけると、『混迷と震え』)とかなりヤバい題になるので、訳者の方が苦労してこう訳したのだと想像するが、なんだかやっぱりこのままではあまり映画館に足労する気が起こらないタイトルである。

そしてストーリーの方は、語学堪能なガイジン・アメリーさんは日本のユミモト商社にOLとして雇われるものの、お茶くみに明け暮れることを余儀なくされるばかりか、最後には脳足りんと判断されトイレ掃除担当にまで落とされてしまうという内容。

かなり日本社会の負の側面が前に押し出されていて、日本人から不評をかうことが多いと聞くが、筆者が十年前にみたときには、日本の会社組織の真理をついてるじゃん!と笑いを誘われた覚えがある・・

アメリー・ノートンは昔大阪領事を務めたことのあるベルギー外交官の娘さんで、オフィシャルサイトでは1967年8月13日神戸生まれとある。

一方、ウィキペディアには1966年7月9日ベルギー・エテルベーク生まれと記載されている。

生年月日どころか生誕地まで違うのはかなりアレ?
日本語のサイトでは神戸が正解、という声も多いようだが、フランス語のサイトにはベルギーが本当の出生地で、彼女の父親の家系であるベルギー男爵家の貴族年表の写しを探し出してきて掲載し、彼女の本名と生年月日はコレだ!と主張している人もいる。
ノートンは自分の本当の出自を認めたくないがため、虚偽を申し立てている、と真面目に精神分析する人もいるようだが、どうやら神戸生まれというのはフィクションなようである。

彼女の場合、幼少時代を過ごした日本を舞台とした作品を書き、その人間形成にも日本文化が多大な影響を与えているのは明らかなので、ノートンのファンでなくとも、自分が日本に生まれたと脚色したくなる気持ちはわかる気がする。

それに単純に、世界的にマイナーな日本人的観点から言わせていただくと、そこまで入れ込んでもらえるのはどちらかといえば嬉しい気さえする。

ま、芸者風白塗りに真っ赤なルージュ、でかい帽子とゴシックな黒ミサ風の装いが多いせいで、作家・アメリーさんはかなり奇天烈な作家としてのイメージが先行しているから、こういう議論も出てくるのかな。

アメリー・ノートン

ともあれ、もうひとつの「西洋から見た日本社会」作品の映画化は、『東京フィアンセ』(2014年制作 / 原題:『Ni d’Eve ni d’Adam』)

こちらはノートンの同国人ベルギー出身のステファン・リベルスキー監督作品で、主役にもベルギー出身の若手女優ポーリン・エチエンヌ(Pauline Etienne)が起用されている。

超フレッシュでキュートな女優で、原作者のノートンもこのキャスティングには超ご満悦なようだし、確かにポスターもとてもフレンチっぽくて(本当はフランスのお隣りのベルギー産なんだが)超キュート。

東京フィアンセ

ストーリーもかなりポップで軽妙な展開のだった。ちょっと、その昔吉川ひなのと武田真治をキャストしたフランス人監督ジャン=ピエール・リモザンが、渋谷や下北沢周辺の「東京」を舞台に撮影した『TOKYO EYES』(トーキョーアイズ・1998年制作)みたいな雰囲気というか。

どちらの作品もフランス映画祭横浜やベネチア映画祭には出展されたものの、日本での配給はほぼない状態で、日本で生まれたかったアメリーさんの想いも、まだイマイチ日本には届いてない片思いなのかなーという気がするけれど・・

日本は褒められることも多い反面、文化的にヘンな勘違いをされることも多い国。

特に海外在住で頻繁にヘンな方の好奇の目にさらされる機会の多い日本人は、外国人のするちょっとした解釈違いにも敏感にならざる得ないのだろうが、「ガイジン視線からみた日本」が許せない人も結構多いな、という気がする。

もうちょっと、違う視点からみた日本を許容する心の余裕もあった方がいいんでは?と思うんだが如何なもんか?

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